6/10 時の記念日   

 

1920(大正9)年、当時の日本人に欧米人なみに時間を尊重する意識を
持ってもらう事を願い、『日本書紀』の天智天皇の条、水時計創設の記に
由来して、生活改善同盟が6月10日(陰暦4/25)を選定したそう。
意義づけは...『時間の大切さをかみしめる日』とのこと。
(参考記事:ネット検索によりSEIKO鰍フHP内)

私はなぜかこの日が好きだ。
さまざまな記念日があるが、単純にカコイイような気がするのだ。(^^ゞ

時。
誰もに平等かつ同じペースで与えられている。
普段は空気のように意識もされず、でも不足した途端、そのありがたさや
忘れかけていた夢や、失ったものの大きさにハッとさせられる。

そんな漠然として、でも確実に私たちを抱擁し、時に支配し、時に自由に
するその存在に、どこか畏敬の念を抱いたりする。

幼稚園と短大がキリスト教系だった私。
幼稚園では毎日、短大時代は週2回欠かさず訪れる礼拝の時間。

祈ることで救われる心のカケラや、はじめて気づく音や時空の広がり、
自分(個)に帰る一瞬の静寂やステンドグラスの魅せる色の美しさを
静かにまっすぐ受け取ることができた。 ...ような気がした。

それにに加え短大では、年に数回の特別礼拝もあり、近所の教会へ
日曜礼拝に出かけることも奨励されていた。
そんな日は、それが無ければ出会うことのない方のお説教を耳にする
ことになる。

今でも忘れないひとつのハナシ。

確か『神とは?』というテーマだった。
当時私の思うそのイメージは、必ず身近にあって、でも見えないもの。
例えるなら、心や宇宙。

が。
『これまで何度も同じ質問を受けました。考え続け、たどり着いたのは...』
と語りはじめたその答えは、

『時』だった。

私たちは時計を身につけ、時間をコントロールしたような気になる。
でもそれは時のひとつの側面にすぎず、まるで乾いた白砂のように
力ずくでつかむほどに指の間からこぼれてゆく。
時計で計った長さとは異なる速度で私たちの無意識の中にも時は流れ続け、
遠く近くいつもそこにある。
無くなることは無い。
それが無ければ何も生まれない。

妙に納得して忘れられない。
今日はそんな『時』を記念する日。
大切に感じて有意義に過ごせただろうか。