1/20 神戸『1.17』によせて。

 

また、1/17がやってきた。
神戸のことを思い出さずにはいられない。
あの時のショック!!!
・・・そして私は何もできなかった。

神戸は私が短大時代に住んだ街。
海水浴場や水族園のある須磨にある、伯父の家に2年間下宿しながら
御影山手にある保育科の短大に学んだ。
その家の家事をしながら、ほとんど毎日5時まで授業のある学校に1時間かけて
通学するだけで、一日が終るのが早かった。

たま〜に学友とパスタやケーキなと食べに行くのが楽しく、神戸という街は
何を食べても標準以上には美味しかった。(東京はハズレも多い)
そのうえ、景色が良い。北が山、南は海、その間に3本の線路が東西に走る。
地理がものすごく判りやすい。
そこここに異国情緒が溢れ、女の子にとってはタマラナイ街。
女子校も多く華やかだ。

で、伯父の家は2階を女子用の下宿としていたため、私の他に年の近い
女の子ばかりが4人住んでいた。
みんな出身地も学校も違い、仲が良くて、それだけでも楽しかった。

唯一続けたバイトは、須磨にあるラジオ局での電話オペレーター。
高校時代放送部だったし、放送に興味が強かったので、飛び込みで履歴書を持って
行き、幸運にもすぐに仕事が巡ってきたのだ。
土曜のお昼3時間ほどある番組中にリクエスト曲を受けつける仕事で、5台くらいある
電話がひっきりなしに鳴った♪
かけてくる人もさまざまで、常連さんも多く、お話も楽しかった。
で、私はその街にいる間に芝居に興味を持ち、小さなプロダクションに入り、
初舞台を経験し、京都の太秦まで毎週末のように通って、撮影を見学した。

将来住むならこの街!っと宣言できるほど大好きで、
帰省のたびぶらりと立ち寄った。

そんな、想い出に溢れる街が、あの日、燃えていた。

丁度、父が北区にある病院に入院中だったが、実家には半日以上電話が繋がらなくて
気を揉んだ。実家は震源から離れているし、父の病院も山の上だったのでほとんど
影響ないと聞き安心。

かの伯父は、須磨の家にいるはずだが電話も通じない、電気やガスも通じてないはず。
加古川に住む末の伯父が分断された道路を歩いて様子を見に行ってくれた。
家は文字通り半壊したが無事だった。
伯父は戦時中に陸軍士官学校を出て、兵庫県警を退職まで勤め上げた・・・というかなり
コワイ存在。(^^;)
戦争経験者は逞しい。『正月にモチを食べ過ぎたので、ダイエットになっていい。
水は井戸水が無事。ガスが使えないので調理できないが・・・』とのこと。
笑った。悲惨な中なのに笑った。

私は都内の某建設系会社に勤めていた。
業界ではあの高速道路の橋脚が折れて倒れたという有り得ない事実に驚き、早急なる
復興のため、各社検証や作業のため人が借り出されているようだった。

何もできなかった。基金にわずかな寄付をしただけ。
すぐに動けない自分の無力さがものすごくイヤになった。

それでもTVは、たくましく、そして美しい人々の顔を映し出す。
配給されるものをキチンと並んでお年寄りや子どもに先をゆずり、
『ありがとう』といいながら受取る人々の列。
それを配る、全国のボランティアの人たち。
銀行が機能しなくなり、日銀の神戸支店に人が殺到するいかと思われたが、
『いつでも出せるなら今日でなくてもいいから』とにこやかに帰って行く人もいたという。

私の中の神戸そのものだ。
人があたたかくおだやかで、志が高い。心の美しい人たち。
その空気、風土をそだてた神戸が、年々復興してゆくのを遠くで見ているだけの私。

あのとき、本当にお金が欲しい!と思った。
変な話だが、そこまでの交通費としばらく会社で働かなくてもいいだけのお金が
心の底から欲しいと思った。・・・屈折した想い。

今もどこかで後ろめたさを憶えながら、働き生きている。
『神戸』と書いたものを見つけると買ってみる。
ちいさなものでも、神戸に向けてお金を払いたい。

応援してます、神戸。

98年になって、私は一冊の本を手がけた。
日経BP社発行のマニュアル本: 『スイスイおぼえるAutoCAD LT97』。
このサブタイトルは『明石海峡大橋を一週間で描こう』だった。
偶然の出逢いだが、今でもお世話になっている編集担当の方は兵庫県西宮市出身。
どこかお互い熱い想いを持ちながら創った。
自己満足に過ぎないが、少しだけ、神戸のために力が使えた気がした。

みんなが神戸に足を運んでくれるように。
愛してくれるように。
願いをこめて−。



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