12/8 誕生日に寄せて

 

12月8日は、ジョン・レノンの命日。
そして、私の親友の誕生日でもある。
だけど、その親友はもう遠いところに居る。

その彼女とは、高校の入学とともに出会った。
高校は、お醤油と素麺『揖保の糸』で有名な古い城下町『龍野市』にあった。
この町は『赤とんぼの里』としても有名。
♪夕焼〜け小焼け〜の、赤とんぼ〜♪
♪負われ〜て 見たの〜は〜 いつの〜日〜か〜♪
の作詞者:三木露風は高校の先輩にあたるとか。
夕焼けに染まる揖保川に群れる赤とんぼをみれば、自然と口ずさむこの曲。
日に3回(?)町中に大音響で時報代わりに流れている。(^^;)

私の家からの通学は、ほぼ1時間半かかった。
今は少し早く40分程度になったようだが、旧国鉄の頃は地方単線のため
その頃の汽車は通過待ちの時間調整をしつつ、きっちり1時間かけて走っていた。
それも1時間に1本程度の超ローカル線。

私は、地元の高校ではなく、この少し離れた学校に進学した。
兄がさらに30分遠い学校に通っていたので、当初それほど大変には
思わなかった。(後々、いろいろ大変になるのだが。)
私の中学からはその年10人が入学した。これでも例年の倍ちかい人数。
『ひのえうま』で出生率が激減した学年のため、どの学校でも1クラス程度
募集枠が狭まっていたその年、地元以外を希望するものをいつもより積極的に
トコロテン方式で押し出したのかも。

そんなわけで高校も定員を45人減らされ、中途半端な『全9クラス』編成の年
だった。
同級生の総数は445人だったので、残りの435人は全く知らないヒト。
その中に、彼女は居た。

入学式前の説明会の日。
当日は快晴。桜吹雪がきれいに舞った。
式を終えて帰ろうとした時、母が誰かと挨拶を交わし始めた。
その横には私とは違う制服姿を着た背の高い女の子が立っていた。
それが彼女。通称『ちか』。
龍野市は彼女の地元だった。

実は、私たちの兄同士は『さらに遠い学校』の同級生。
母同士は面識があり、事前にお互いの入学を知っていたのだろう。
晴れやかに話す母たちの傍で、口もとを絵に描いたような逆三角にして
私にニコニコキラキラと音がしそうなほどの好意的な笑顔を贈ってくれた。

本当に嬉しかった。
多少の恥ずかしさはあったものの、私もきっと同じくらいニコニコキラキラに
なっていたはず。
そんな不思議な魅力の女の子だった。

入学式翌日の放課後、彼女はどこからともなく現れた。
ちか:『ゆきちゃん!5組なんや、私は2組。』
ゆき:『あ、ゆみこちゃん・・・!?』
ちか:『もう部活決めた?』
ゆき:『ううん。家遠いから入らないかも・・・』
ちか:『私は決めてるンや!一緒に見学に行かへん?』

そう云うと私の手をひっぱるように職員室の隣の部屋まで連れてった。
私は彼女の影響により、435人の他人を急激に友達化することになる。
人間にとって最大の褒めコトバだと思う『ユニーク』。
彼女を短く表すひとつのコトバ。
文字通り私にとって『唯一無二の存在』。

そもそも、本名は『裕美子』なのに、なぜか『ちか』と名乗っていた。
フルネームは『北郷千夏』というらしい。(*^^*)

ちかに連れていかれたそこは『放送部』だった。
それから3年間、彼女に引っ張られたまま、だけど徐々に積極的に・・・
この部に所属することになる。
お昼の時間DJという形式で放送を開始したのも、ちかの発案。
文化祭には仲の良い『写真部』と共同で『ビデオドラマ』など創った。
(その頃の仲間が現在NHKのカメラマンとして活躍している)
楽しかった。

ここ数年、かなり朗読やアナウンスで全国大会の優勝候補だったりするようだ。
頼もしい、全く知らない・・・でも応援したい後輩諸君。
いつかTVやラジオのアナウンサーとして活躍する人もいるのだろうか。
お昼のDJは今も続いているのだろうか。

ちかと過ごした思春期頃、一番大切なものは『ともだち』だと気付いた。
なぜなら、私が生きていること、何を想い考え悩み楽しんで、どんな顔で
毎日を過ごしていたのかをリアルに知っていてくれる存在だから。

私は生きている。
これからも、ちかの話をしたいと思う。
私は『千夏』が確かに輝いて生きていたことを知っている。


リストへ戻る